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アステカの君主・補足

「アステカの君主」記事の補足です。
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【アスカポツァルコのテソソモク大王】
「アステカの君主」記事の中で、1428年のアスカポツァルコ戦のことが繰り返し出てきますが、アステカ帝国が栄える前に栄えていた強大な都市アスカポツァルコの王テソソモク(1426年没)も、けっこう気になっていたりします。きっと、アステカの英雄たちに勝るとも劣らない、格好いいオヤジだったに違いありません。メキシコでは銅像が建っていて、テソソモク公園(Parque Tezozómoc)があるらしいぞ。

【アスカポツァルコ王テソソモク Tezozomoc (Azcapotzalco) 生年1320 在位1353(1367、1370)-1426)
アステカ帝国が栄える前に、メキシコ盆地において強大な勢力を誇っていたテパネカの首都アスカポツァルコの王、テソソモク。彼の50年以上に渡るすぐれた統治によって、アスカポツァルコは大いに繁栄した。たぐいまれなる政治手腕と軍事指導力を持つ、したたかな王者。生年と在位は英語ウィキペディアを参照しましたが、つまるところ長生きして、在位も長かったもよう。
テソソモク全身
テスココの王子ネサワルコヨトルは、1418年、父王イシュトリルショチトルをこのテソソモク王に殺され、10代後半から20代にかけて、故郷テスココを離れて、亡命生活を送るハメになります(※)。
(※)(ただし、テソソモク大王の名誉のためにいうと、最初に戦いを挑んできたのはテスココ王イシュトリルショチトルのほうらしい。父の死を目撃した十代の王子ネサワルコヨトルがのちに成長し、10年後、父の敵のアスカポツァルコを滅ぼし、立派な王になるという後日談があるものだから、テソソモクは悪役ポジションかと思いきや、「イシュトリルショチトルは、「チチメカの王」と名乗ってテソソモク大王に戦いをいどんだが、当時アスカポツァルコとの仲がよかったアステカ族の協力が得られず、結局、テソソモク大王に敗れて殺される」という流れで、無謀にもテソソモク大王に先にケンカ売ったの、イシュトリルショチトルだった…。こりゃテソソモク大王べつに悪くないわ)。
王子ネサワルコヨトルカラー
一方、アステカ族は、テソソモク王と良好な関係を築きます。第2代君主ウィツィリウィトルはテソソモクの娘を正妻とし、結果生まれた第3代君主チマルポポカはテソソモクの孫。アスカポツァルコに従いながら、少しずつ自らの力を蓄えます。
チマルポポカと祖父
ああ…。この後、10年もたたずして、1426年に偉大なるテソソモク大王が崩御。次の王のマシュトラとアステカの仲が悪化し、アステカ王チマルポポカが暗殺される事態が勃発。完全服従を迫られたアステカ第4代君主イツコアトルは、テスココの王子ネサワルコヨトルらの同盟軍と共に反旗を翻すことを決断。1428年、強大なアスカポツァルコが滅びることを、彼らはまだ知らない…。

テソソモクの死後、アスカポツァルコ王国は崩壊しますが、テソソモク大王の息子はあちこちで王になっているようです。
アステカが三国同盟を結んだトラコパンの王は、テソソモクの息子。
http://members.iinet.net.au/~royalty/states/southamerica/tlacopan.html
また、テノチティトランの姉妹都市トラテロルコの初代王も、テソソモクの息子。
テノチティトランは、いわゆる「アステカの皇帝」が首長としておさめるアステカ族の都市ですが、トラテロルコは、テノチティトランから分離独立したアステカ族の建てた都市です。
テノチティトランが第1代君主アカマピチトリ王をクルワカンから迎えたように、政治的な理由で、テソソモクの息子を自分たちの初代王として迎えたそうです。
なので、トラテロルコ王家も、アステカ族の都市にして、テソソモク大王の血筋。
http://members.iinet.net.au/~royalty/states/southamerica/tlatelolco.html
そして、テノチティトランでは、トラコパンやトラテロルコから、嫁をもらっています。
最後の君主クアウテモックの母親は、トラテロルコの王モキウィシュの娘だそうなので、別の説が正しいとか、養子とかでないかぎり、もしかしたら、こうかもしれない。
クワウテモクのご先祖
テソソモク大王、好きなので、なんだかうれしいな。
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【アステカ時代の人物】
あと、アステカとその周辺国の、歴史上の人物のイラストを描いたので、こちらに貼ります。

【トラテロルコ王モキウィシュ Moquihuix 在位1460-1473】
アステカ皇帝の都市テノチティトランに隣接する、もうひとつのアステカ族の都市、トラテロルコの王。トラテロルコは市場が名高く、商業で栄えていたが、モキウィシュ王の時代に、アステカ第6代君主アシャヤカトルと戦争になり、敗北。モキウィシュ王は、トラテロルコのピラミッドの上に追い詰められ、アシャヤカトルによって投げ落とされて死亡したという。以後、トラテロルコは自治を失い、従属させられた。
モキウィシュ王
以下は、約翰さま情報です。なんだか、負けた王だからか、ひどいゴシップの書かれようで、モキウィシュがかわいそうになってきます…。きわどい話も出てきます。

■チマルパインより。モキウィシュ王は、アシャヤカトルの姉(娘説もあり)チャルチウネネツィン王女(テスココ王に嫁いだ王女とは別人)をめとり、二人の息子をもうける(アシャヤカとツィワクポポカ)。しかし、チャルチウネネツィン王女は体が弱く不美人でやせており、モキウィシュ王は彼女を冷遇し、アシャヤカトルが彼女に贈った服はモキウィシュ王の他の妻のものとなり、また、殴られもした。チャルチウネネツィンは、弟のアシャヤカトルのもとへ行き、モキウィシュ王の彼女への虐待と、モキウィシュ王が戦争を仕掛けるつもりだと語っていたことを話した。アシャヤカトルは激怒。トラテロルコとの戦争となった。
■『クアウティトラン年代記』では、さらにゴシップ度が増し、モキウィシュは太った女性を好み、情婦達を巨体になるまで太らせていた。また、妻であるアシャヤカトルの娘(ここでは娘らしい)の股に腕を入れ、体内を触ったという。そしてアシャヤカトルの娘の女性器が彼に向かって「何故悲しむのか、モキウィシュ?何故この都市を去るのか?もはや未来はなく、夜明けは訪れないだろう」と話しかけたという(アシャヤカトルの娘あるいは姉妹の女性器がしゃべるという展開はドゥランの本にもあり、そちらではそういう夢を見たという流れ)。
■そんな踏んだり蹴ったりのモキウィシュですが、『トラテロルコ編年誌』には、トトナク地方の南のクエトラシュトラン征服において、即位前のモキウィシュが英雄として描かれているらしい(ただし、アルバ・イシュトリルショチトルの記録では、テスココ王ネサワルコヨトルのリーダーシップにハイライトが当てられているらしい)。自国トラテロルコの記録だから、英雄の描写なのかも。

私が読んだのは、ドゥランの本のトラテロルコ戦の記述ですが、老いて血気盛んな副王さまに萌えたという感想でした(どこに注目して読んでいるんだ…)。
トラテロルコ戦漫画
副王様の演説を要約。
「The History of the Indies of New Spain」Diego Durán(chapter XXXIV, p259 2017年5月現在、グーグルブックスで該当箇所が「書籍のプレビュー」より読めます)
https://books.google.co.jp/books?id=193tKPdM-ykC&printsec
トラカエレル1473
英語版のウィキペディアには、1978年に、コヨルシャウキの石の近くで、モキウィシュのものと推測される骨壺が見つかったとありますが…。アステカの部族神ウィツィロポチトリの敵(=同族の裏切り者)コヨルシャウキの石の近くだからモキウィシュ王と推測されたのかはわかりませんが、これがマジなら、ものすごい嫌がらせです。
モキウィシュ王と娘
ただ、モキウィシュ王にはトリランカパトル(ティヤカパン)という王女がいて、アステカ第8代君主アウィツォトルに嫁ぎ、アステカ最後の君主クアウテモックを生んだという話もあります。
アステカ最後の君主クアウテモックは、スペイン人と戦い、今でもメキシコの英雄。父のアウィツォトルには、他にも妻がおり、その王子が次期皇帝ポストである軍指揮官(トラカテカトル)についていたが、スペイン人が来てから死去。クアウテモックは天然痘と戦で王族が死に絶えた中で君主になった25歳の若者。
アステカとスペインの戦いで、アステカ軍は、都テノチティトランが制圧されたあとは、島の北のトラテロルコに移動して戦ったので、トラテロルコ出身の王妃から生まれたクアウテモックは、テノチティトランを憎む人々が多い中、トラテロルコ出身の戦士たちにも受け入れられたのだろうか……とか妄想です。
クアウテモックの母の出自については、他の説もあるようですが(英語ウィキペディアだとTlilancapatlで、スペイン語ウィキだと Izelcoatzin…って誰だろう)、なんだか救われる話です。
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マクイルショチツィン Macuilxochitzin 生年1435頃ー?】
アステカの女詩人マクイルショチツィン。歴代皇帝を支えた副王トラカエレルの娘として生まれる。代表作は、若き皇帝第6代アシャヤカトルの1476年の征服戦争を歌ったもの。アシャヤカトルが町々を次々と征服し、アシャヤカトルの足を傷つけたオトミ族の男を、オトミの女たちが命乞いをしたという話が語られる。
皇帝への詩
「アシャヤカトル侯、鷲の花は、あなたの手中にある。私たちのそばにいる男性は、聖なる花に、戦いの花におおわれ、花に酔う。」(青土社『アステカのうた』野中雅代編訳より。いい本なので、おすすめです)
おまけ。小さいころ。お父さんといっしょ。
娘の歌
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イザベル・モクテスマ(テクイチポ・イシュカショチツィン)Isabel Moctezuma Tecuichpo Ixcaxochitzin  1509/1510 – 1550/1551】
1521年、アステカ滅亡の年。アステカ最後の皇帝クアウテモックと、彼の幼な妻テクイチポツィンをイメージ。
テクイチポツィン
第9代皇帝モクテスマ2世の娘テクイチポツィンは、滅亡の時、11歳くらいらしいのですが、このとき、すでに、アステカ人の夫だけでクアウテモックで3人目。
最初の夫はクアウテモックと同じく第8代アウィツォトル陛下の息子で、次期皇帝候補のポストである軍指揮官だったようですが、スペイン人来寇の翌年、1520年に死亡。
その後、第10代皇帝クィトラワクに嫁いだが、天然痘により、在位80日で死亡。
1525年のクアウテモックの刑死後は、3人のスペイン人の夫に嫁ぎ、子孫を残したという。
波乱の生涯を送った美しきプリンセス。
(※ちなみに、クアウテモックは、テクイチポツィンと結婚する前に、もう一人、モクテスマ2世の王女を妻にしているようです。)
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トラウィコレ Tlahuicole 1497–1518】
アステカの宿敵トラスカラ族の勇士。
トラスカラはアステカの長年の宿敵で、2国の間では、何度も戦争が行われていた。
トラウィコレは高名な戦士だったが、ある時、不覚にもアステカの捕虜になった。
当時、捕虜は生贄として死ぬさだめ。ところが、あまりの勇猛ぶりに、アステカ第9代君主モクテスマ2世は、例外的に彼を助命し、自由にしようとした。
しかし、トラウィコレは、誇り高き戦士。捕虜になった以上は、戦士たるもの、生贄になる宿命を潔く受けいれるべきとし、頑として受け付けなかった。
モクテスマ2世は、タラスコ(プレペチャ)との戦のさいに、トラウィコレに従軍させた。トラウィコレは名誉の戦死を望んだが、大活躍して戻り、モクテスマ2世は富を得た。
モクテスマ2世は、再び、トラウィコレを自由にしようとした。しかし、トラウィコレは、アステカの将となることも、故郷トラスカラに帰ることも拒み、やはり、捕虜になった者として、慣習に従っての死を望んだのであった。
モクテスマ2世は彼のために、盛大な供儀の儀式を行った。
これは、生贄となる戦士の腰(または足首)を縄で大きな丸い石に結び付け、刃のついていない木の武器を与え、完全武装の戦士たちと戦わせるという、伝統にのっとった供儀であった。
トラウィコレは、貧弱な武器で、アステカの戦士たちを8人も倒したのち、堂々と果てたという。
トラウィコレ
捕虜となったら運命を受け入れ生贄となって潔く散る、アステカから見て「敵ながらあっぱれ」の戦士の物語。
1519年にスペイン人がくるので、その直前に死んだ勇士だったようです。
トラスカラ族といえば、スペイン人と手を結び、アステカを滅ぼした部族ですが、トラウィコレが生きていたら、どんな活躍をしたのでしょう。
(メモ:約翰様情報によると、出典はトルケマダ『インディアスの王朝』で、そこではTlalhuicoleトラルウィコレ表記。しかしカソの『太陽の民』ではTlahuicoleトラウィコレ表記になっていて、こちらの方も広まった、とのことです。)
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シコテンカトル2世 Xicotencatl II Axayacatl, Xicotencatl the Younger 1484-1521】
アステカの宿敵トラスカラ族の王子にして勇猛な指揮官、シコテンカトル。
ちなみに、彼の父の名前も同じくシコテンカトルです。トラスカラは、4人の首長によって治められており、内一人がシコテンカトル2世の父、老シコテンカトルでした。
1519年、スペイン人征服者コルテスがメキシコにやってきたとき、若きシコテンカトルは、あらわれたコルテスの力を見るために、トラスカラの戦士を率いて指揮官として派遣され、一戦を交える。
その後、トラスカラ族の首長たちは、長年の宿敵アステカを滅ぼすために、スペインと手を組む道を選ぶ。
若きシコテンカトルはスペインと手を組むことに疑問を持ったとされ、ついには、反逆の疑いで処刑されたという。
トラスカラにとっての裏切り者か、メキシコの英雄か、時代によって評価が分かれているようです。また、処刑は、トラスカラの4つの勢力の権力争いによる陰謀…という見方もできるようです。
若きシコテンカトル
トラスカラ戦士たち

シコテンカトル1世 Xicotencatl I , Xicotencatl the Elder 1425-1522】
スペイン人があらわれたとき、トラスカラ族を治めていた、4人の首長のうちの一人。
長年の宿敵であるアステカを倒すため、スペイン人征服者コルテスを同盟をすることを選んだ。
大変な老齢で、当時は目が見えなかったという。
反逆の疑いをかけられた息子シコテンカトル2世を、かばうことはせず、コルテスに彼を殺すように言ったともいわれる。
シコテンカトル1世
トラスカラの歴史上の人物たち、チビキャラバージョンです。
トラスカラチビキャラver
トラスカラチビキャラver字入り
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【スペイン人征服者たち】

1519年、アステカにやってきた、スペイン人征服者、エルナン・コルテスと数百人のスペイン兵。
※サムネイルをクリックしてください。
エルナン・コルテスたち
コルテスたち文字付
コルテスに通訳として貢献した現地の女性、マリンチェは、アステカ滅亡後、コルテスの間に息子を産みます。その後、スペイン貴族に嫁がされ、20代で若くして死去。
現在、メキシコでは「裏切り者」の代名詞ですが、ウィキペディアのマリンチェの参考にあった伊藤滋子氏のマリンチェ論が現代の考え方かもしれません(歴史の中の女たち 第2回 <マリンチェ>(伊藤滋子)(社)ラテンアメリカ協会 ラテンアメリカ時報 No.1376 2006年秋号。以前はPDFが拝見できましたが、サイト移転があり、2016年2月末現在、ラテンアメリカ協会サイトで会員のみダウンロード可となったようです)
スペイン兵は数百人でしたが、トラスカラなどの反アステカの部族が数万人の戦士を出してスペインに協力、アステカは敗れたという経緯があるので、なぜ10代後半の少女だったマリンチェだけが裏切り者扱いなんだ、というのは疑問なところですね…。もっとも、現代のメキシコで、メキシコ国民どうしが仲良くするためには、トラスカラなどの反アステカの部族の子孫に批判の矛先が向いてもいけませんが…。
トラスカラにとってアステカは長年の仇敵で、トラスカラがスペインについたのも、仕方がない気がします。今でこそ、同じメキシコの先住民だからと、仲間どうしの争いのようについ考えてしまいますが、当時の人々にとっては、「同じメキシコの先住民」などという意識はなく(外からスペイン人が来てから、初めて「我々はメキシコの先住民だ」という考えが生まれた、という感じで)、お互いが長年の敵で、完全に別のグループで、同族意識など全くないから、「裏切り」や「仲間どうしの争い」という考えが、どれだけあったのか…。
もちろん、パイナラ出身のマリンチェにとっても、アステカは自分とは違うグループで、「裏切り」という概念はなかったし、そもそも奴隷だから主君に仕える以外なかった…という意見に、なんだか納得です。
マリンチェ習作
そういえば、黒澤はゆま氏がマリンチェについて、ドラマティックな解釈でのコラムを書かれていて、興味深く読みました。これで一冊小説を読みたい…。実際にマリンチェが何を考えて行動していたのかは残された記録からはわからない部分ですが、確かに、いろいろ想像が広がる女性だなあ…。
“性的奴隷”だった少女が30万人の都市を滅ぼした メキシコの産みの母、悪女マリンチェの生涯
http://wotopi.jp/archives/34457
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【イラストあれこれ】
「アステカの君主」記事に載せきれなかった、イラストをこちらに。
第5代君主モクテスマ1世と、副王トラカエレル。
第5代モクテスマ1世
副王トラカエレル。
副王トラカエレル
アステカ最後の君主(第11代君主)クアウテモック。
クアウテモックの戦い
クワウテモックの名前
落日を暗示する名前だというのをどこかで見ましたが、獲物に襲い掛かるワシと考えたら格好いい名前です。

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