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アステカの君主

こちらの記事は、アステカ帝国の君主(トラトアニ)や、歴史上の人物のイラストです。
アステカは、「アステカ帝国」と「アステカ王国」という両方の単語を聞きますが、近年では、「王国」表記が主流のようで、よく目にします。
実際、国家のスタイルは、「それぞれに君主のいる都市の集まり」で、戦争に勝って支配した都市には貢物を集める中央からの役人がいるくらいで、あくまで都市を治めるのは現地の権力者であったらしく、中央がガチガチに支配していたわけではなかったもよう。いったん征服した都市が、貢物を納めるのを拒否したために、再征服のために戦争、というのも、しょっちゅうだったようです。
ですが、個人的には(あくまで個人的には)、軍事国家は「帝国」の方が強そうで格好良いので、ここでは帝国表記で行きます(漫画サイトですので、大目に見てくださいませ。ちなみに英語だと、Aztec Empireをよく見ます)。アステカの君主も、「皇帝」と「王」をごっちゃにして文中で使ってはいますが(ごめんなさい)、「王」のほうが一般的です。
ついでに言いますと、15世紀の当時は「アステカ」という呼び名を使っておらず、「メシカ」というのが彼らの自称でした(メキシコの国名はここから)。
※詳しくどうぞ→「アステカ」ウィキペディア
※英雄たちの生没年、在位の期間は、諸説あるようです。

記事の中に登場する君主は、以下の通り。
このうち、現地のメキシコで人気があるのは、文武両道でヒロイックな人生を送ったテスココの賢王ネサワルコヨトルと、スペイン人相手に勇敢に戦ったアステカ最後の君主クアウテモックらしい。

【不遇の弱小部族時代】
アステカの首長テノチ…(都テノチティトラン建設)
テノチさん

【アステカの初期君主たち】
第1代君主アカマピチトリ(高貴なるトルテカの血を引く、クルワカンの王族出身の初代君主)
第2代君主ウィツィリウィトル(大国アスカポツァルコとの良好な関係のもと、着実に力をつける)
第3代君主チマルポポカ(悲劇的な死を迎えた若き君主)
初期王たち
(左より、第1,2,3代君主。)

【最強!「アステカ帝国」時代】
第4代君主イツコアトル…(大躍進!強大国アスカポツァルコを滅ぼし、「三国同盟」締結)
テスココ王ネサワルコヨトル…(文武両道でヒロイックな人生を送った、同盟国テスココの賢王)
第5代君主モクテスマ1世(約30年王座につき、アステカを発展させた)
副王トラカエレル…(歴代皇帝を尻に敷…いや、補佐した名宰相)
第6代君主アシャヤカトル…(タラスコ王国に大惨敗)
第7代君主ティソク…(戦争に消極的で5年で毒殺されたという)
第8代君主アウィツォトル…(戦の天才、4日間で2万人の生贄をしたと記される怪物君主)
テスココ王ネサワルピリ…(同盟国テスココの王。父ネサワルコヨトルと同じく賢王)
第9代君主モクテスマ2世…(スペイン人襲来!悲劇の君主)
第10代君主クィトラワク…(天然痘によりわずか80日の在位で死去)
第11代君主クアウテモック…(最後の君主)
アステカ君主集合図名前入り
アステカ君主集合図
(下の絵は、名前なしバージョンです)
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【不遇の弱小部族時代】

【アステカの首長テノチ Tenoch 「岩サボテン」】
テノチさんは、アステカの都テノチティトラン(「岩・サボテン・場所」の意味)を建設した時のリーダー。
アステカ族(メシカ族)は、12世紀半ばより、北の故郷アストランより、メキシコ盆地へ向け南下した。
途中、女呪術師マリナルショチトルのグループの離反が起き、メキシコ盆地に到着してからも、まわりの部族に新参者扱いされ、さげすまれ、攻撃され、不遇の弱小部族時代が続く。
クルワカン王国の王のもとで傭兵として戦い、クルワカン人と婚姻を結ぶようになったが、かの「クルワカンの王女の皮をはいじゃった事件(後述)」が発生。怒ったクルワカンの王に攻撃され、テスココ湖へと逃げる。
1325年(または1345年)、神官の夢の中に、部族神ウィツィロポチトリのお告げがくだる。
彼らは、テスココ湖の湖の上にある小島に、お告げにあった「サボテンにとまるワシ」の吉兆を見て、自分たちの都市テノチティトランを建設するのであった。
テノチさん
さて、「クルワカンの王女の皮をはいじゃった事件」………
これは、とても絵にできませんが…。

ある時、アステカ族は、クルワカンの王に、クルワカンの王女を自分たちの神「ウィツィロポチトリの花嫁」としていただけないかと頼んだ(大貴族の娘となってる話もあるようです)。
そうして王女がやってくると、王女を生贄にして、その皮をはいでしまった。
王女の悲劇を知らないクルワカンの王が、アステカの祭りに招かれ、神官の舞を見物する。
王は、神官が王女の生皮を服として身にまとって踊っていることに気づき、驚愕し、激怒してアステカ族を攻撃した。

うん、絵にできない…。
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【アステカの初期君主たち(第1,2,3代君主)】

左より、第1代君主アカマピチトリ、第2代君主ウィツィリウィトル、第3代君主チマルポポカ。
サムネイルをクリックしてくださいませ。
初期王たち

【アステカ第1代君主アカマピチトリ Acamapichtli 「一握りの葦」 生年1346年ごろ?、在位1376ー1395(1372-1391など、諸説あり)】
1375年ごろ、テノチティトランを建設したアステカの首長テノチが死去。
アステカの人々は、政治的な利点から、自分たちの王を、トルテカの高貴な血を引くクルワカンの王族から迎え入れることにした(「クルワカンの王女の皮をはいじゃった事件」は、数十年たって、許されたのかなあ…)。
……と、いうわけで、初代王アカマピチトリさんは、クルワカンの出身。ただし、父親はアステカ族出身です。テスココのアコルワ族の血も引いているらしい。
アカマピチトリ即位
アコスタの『新大陸自然文化誌』(岩波書店、1966)下巻の、王を歓迎する長老の演説を要約してみます(この本では物語風にそれぞれの王のお話が載ってる)。英語からの翻訳でなくてごめんよ…。
「王よ、貧しい都へ、よくおいでくださった。あなたはここメヒコの庇護者としておいでくださった。我々の土地は他人のもの、我々の未来は不確かなもの。どうか、休むために来たのではなく、働かねばならぬ重荷を負うたと思ってくだされ。我々は、近隣諸国の人々の歓心を買わねばならぬのです。王よ、よくおいでくださいました。」

【アステカ第2代君主ウィツィリウィトル Huitzilihuitl 「ハチドリの羽根」 生年1379年ごろ、在位1396–1417(1391-1417)】
アカマピチトリの子。母はアステカ族(ただし、アカマピチトリの正妻はクルワカン出身だったらしい)。当時の強国アスカポツァルコのテソソモク大王の娘を正妻とし、アスカポツァルコと良好な関係をつづけ、着々と力をつける。
第2代君主の王子
第2代君主ウィツィリウィトルの王子たち。アステカの未来を担う、副王トラカエレル、第5代君主モクテスマ1世、第3代君主チマルポポカは、すべて母親が違う異母兄弟。それを見守るイツコアトルおじさん(ウィツィリウィトルの異母兄弟)。

【アステカ第3代君主チマルポポカ Chimalpopoca 「煙る盾」 生年1399(1397)年ごろ? 在位1417–1427)】
ウィツィリウィトルの子。当時の強国アスカポツァルコのテソソモク大王の孫という理由で王に選ばれた。テソソモクにはかわいがられたらしい。
しかし、偉大なテソソモク大王が死去し、息子のマシュトラの代になると、強国アスカポツァルコは、アステカに完全服従を迫る。チマルポポカはとらえられ、檻に閉じ込められ、首をつって自害したという。

第1代~第3代の王の時代では、本当に、周辺諸国に気を遣いつつの人選…というのがうかがえます。

しかし、弱小部族時代も、ここまでです。
第4代君主として、第1代アカマピチトリと女奴隷の間に生まれたイツコアトルが即位。
そこから、アステカの大躍進が始まります。
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【最強!「アステカ帝国」時代】

【アステカ第4代君主イツコアトル Itzcoatl 「黒曜石の蛇」 生年1380年ごろ、在位1427(1428)ー1440年】
イツコアトル帝
1426年、当時の強国アスカポツァルコの大王テソソモクが死去。その後継者となったマシュトラ王は、父王とは路線を変えて、アステカ族に全面降伏を迫ってきた。
戦争か、降伏か、ゆれるアステカの民。
第4代君主イツコアトルは戦いを選択、テスココの王子ネサワルコヨトルらと同盟し、反アスカポツァルコの連合軍を結成、周辺の部族とともに、いちかばちかの大戦争!!
結果、見事、1428年、アスカポツァルコを滅ぼすことに成功する。
その後、ともに戦った、テノチティトラン(=アステカの都市)、テスココ、トラコパンで「三国同盟」を結成。三国同盟は、協力して領土をどんどん拡張。時代が下ると、三つの都市のうち、テノチティトランが次第に力をつけていき、テスココ、トラコパンを従属させ、絶大な権力をにぎり、いわゆる「アステカ帝国」の姿へと変っていく。
アステカ三国同盟
テノチティトランの王イツコアトル(中央)、テスココの王子ネサワルコヨトル(左)、トラコパンの王アクルナワカトル=ツァルカルカトル王(右)。
テノチティトランはアステカ族(メシカ族)の都市。テスココはアコルワ族の都市。トラコパンは征服されたアスカポツァルコと同じテパネカ族の都市で、当時のトラコパンの王はアスカポツァルコのテソソモク大王の息子の一人。以後は、アスカポツァルコのかわりにテパネカ族の代表になった。
(色の塗り方は、約翰さまが面白い塗り方をされていたので、塗り方を教えていただいてトライしました(クリップペイントでトーン化機能使用です)。http://lajosjancsi.deviantart.com/art/Human-Ludwig-von-Koopa-3-331121043)
あとで約翰さまに教わって知ったのですが、軍装ネサワルコヨトルが背負っているのは、ウェウェトルと呼ばれる太鼓らしい(バチがついてる)。耳の飾りは実は断食を表す紙の飾りで、兜全体でネサワルコヨトル(断食するコヨーテ)を表しているらしい。
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【テスココ王ネサワルコヨトル Nezahualcóyotl 「断食する狼」 生年1402年、在位1428 - 1472年】
アコルワ族の都市テスココの君主。偉大なる政治家、哲学者、大詩人。法典をつくり、堤防を築き、賢王として名を残した。
ネサワルコヨトル2
ネサワルコヨトルは、チチメカの首長ショロトルの血を引く由緒正しきテスココ王家の王子として誕生。
しかし、1418年、父親であるテスココ王イシュトリルショチトル王がアスカポツァルコのテソソモク大王に戦いを挑んだ末に敗れ、彼の目の前で殺されてしまう。
当時まだ10代半ばだったネサワルコヨトルは、以後、命を狙われ、亡命生活を余儀なくされる。
イシュトリルショチトルの死
戦士として成長した彼は、反アスカポツァルコの勢力をまとめ、母親の出身部族であるアステカの第4代君主イツコアトルらと力をあわせ、父の死から10年後の1428年、ついに宿敵アスカポツァルコを滅ぼし、復讐をはたす。
その後、テスココの王としてテスココを治め、アステカ族との強い同盟のもと、テスココを発展させ、名君として名を残した。なんというヒロイックな人生…。
高貴な生まれで、苦労人。武勇の誉れ高く、エレガントな文化人。
アステカ滅亡後に生まれたキリスト教徒の子孫が、ネサワルコヨトルは人身御供に懐疑的で、キリスト教のような神を見出していた…とか先祖をフォローしたおかげで、そういうイメージもできたらしい(このあたりは、井上幸孝氏の「ネサワルコヨトルは「詩人王」か?メキシコ中央部の先住民記録文書の批判的再検討」を検索してお読みくださいませ)。でも、生贄に反対と言われた神ケツァルコアトルが神話の中でしっかり生贄しているように、ネサワルコヨトルも、アスカポツァルコ滅亡時に、敵のマシュトラ王を生贄にしていたりするのですが…。
メキシコでは、お札の顔になるほど大人気。
こんなすごい英雄なのに、よその領主の恋人に横恋慕して、領主を危険な戦争にいかせて戦死させて略奪愛という、スキャンダラスな伝説も残っているのはご愛嬌です。
ネサワルコヨトル出陣
ネサワルコヨトル、その名の意味は「断食する狼」、「ハングリー・コヨーテ」。絵文書の軍装姿は耳つきでかわいい。背景は、同盟軍のアステカのみなさん。
ネサワルコヨトル
「ここ地上で、我らは本当に生きるのか。地上では永遠ではなく、つかの間のこと。翡翠も砕け、黄金も磨り減り、ケツァルの羽根も裂けて散る。地上では永遠ではなく、つかの間にいる。」(ネサワルコヨトルの詩)
英語ウィキペディアのネサワルコヨトルの所に、詩をナワトル語で朗読する動画へのリンクがあったので参考までに貼ります。かなりいい雰囲気です。

メキシコの伝記漫画の動画があったので、貼っておこう…。ネサワルコヨトルさん男前です。本当に人気なんだなあ…。

アニメもあったぞ!!(公開されたかは不明)

ネサワルコヨトル、1428年のアスカポツァルコ戦では26歳くらい。
アステカ帝国1428
しかし、父の敵のアスカポツァルコ滅亡後も、テスココ領内の反対勢力を平定せねばならず、1431年の戴冠もテノチティトランにて行い、実際にテスココに住んでの統治スタートは、1433年らしい…。
10代後半、20代の青春が、亡命生活でつぶれてるじゃないか…。
アステカ帝国1440
ネサワルコヨトルと、アステカ第5代君主モクテスマ一世、二人とも1440年の時点では40歳前後のお年頃。
お互い、70歳くらいまで長生きして、テスココとアステカを長く治め、同盟国として協力しあいます。
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【アステカ第5代君主モクテスマ1世 Moctezuma I 生年1398年 在位1440-1469】
モクテスマ一世こと、モクテスマ・イルウィカミナ「怒れる首長・空に矢を射る者」(モンテスマ、モテクソマ、モテクソーマ、などとも表記される)。
第4代君主イツコアトルの死後、30年近くにわたって君主の座につき、異母兄弟である副王トラカエレルとともに、アステカ帝国の基盤を作り、治世の前半は自然災害による飢饉に苦しめられたこともあったが、戦争によって領土を広げ、着実に国を発展させていった。勇猛果敢な戦士であったという。
モンちゃんと副王201504
モンちゃん兄弟
チマルパイン第7報告書を読まれた約翰さまより、トラカエレルが夜明け前に生まれ、モクテスマ1世が同じ日の夜明けに生まれて、トラカエレルが明けの明星に、モンテスマ1世が太陽にたとえられる、という話があると聞きました。いい伝説。実際は、どっちが兄か弟かは、はっきりとはわからないのかな…(日本語の本だとトラカエレルが弟になってるのをよく見ます)。
1440王都
これは、完全な余談なのですが、「シヴィライゼーション5」というゲームに、彼がモデルである「アステカの君主モンテスマ様」がでてくるらしい。「狂犬モンちゃん」とよばれ、とにかく戦争をしかけてくるらしい(「シヴィライゼーション4」のモンちゃんのほうは、シヴィライゼーションのウィキによると、第9代君主のモンテスマ2世のようです)。
シミカカン
あとで判明したのですが、戦争開始の雄叫び「シミカカン!シミカカン!シミカカン!」のセリフの意味は、シヴィライゼーションのウィキによると、こうであるらしい。→Declares War: Die, die, die! (Ximicacan! Ximicacan! Ximicacan!)
「死ね!死ね!死ね!」………なんという狂犬ワードだ…。
【追記(2016年9月)】
ただし、こちらは怪しい記述であるらしく、ツイッターで、ナワトル語研究者のSasaki Mitsuyaさまが、考察しておられましたので、ご紹介いたします。
https://twitter.com/Mitchara/status/777188191988178945
「Ximīkakān! < ximwīkakān < ximohuīcacān って言ってますね。「死ね」じゃなくて「去れ!(Go)」の敬語形です。」
「また、「死ね」という意味になるのはximiquicān「シミキカーン」で、3つめの母音は "i" である必要があり、シミカカーンと発音されることは、よほど訛らないとありえないと思います(シミキ(単数)、シミキカーン(複数)、動詞miki)」
……とのことだそうです。
現代ナワトル語の、どこかの方言か(または、声優さんがナワトル語の母国話者でない方でない方か)という事でした。

こちらの動画の、冒頭にいきなりモンテスマさまが登場しますが、これはこれで格好いいなあ…(動画は「Civilization5」)。

さらに余談です。

モクテスマ1世の時代に起こった、干ばつなどの自然災害による飢饉についての論文が、本当にありがたいことに、2016年現在、ネットで読めます。
「アステカ王国史における自然災害と環境認識の変容」(井関 睦美、2012)
http://ci.nii.ac.jp/naid/10030972815

モクテスマ1世とトラカエレルが登場する映画「Return to Aztlán」(1991)があるそうだ。
モクテスマ1世時代の干ばつと、アステカ族の故郷の地とされる聖地アストランを見つけるべく探検隊を派遣した話をまぜて話を作っているらしい(早稲田選書の『古代のメキシコ人』によると、「探検隊は、大きな湖の近くにチコモストク(七つの洞穴)と古いクルワカン(地名)を発見、部族神ウィツィロポチトリの母コアトリクエと会って、王からの贈り物を渡した」…ということらしい)。
予告編。

予告は、モクテスマ1世の死のシーンから始まり、時代がさかのぼって、当時の干ばつが描かれ、アステカの破滅を防ぐために女神コアトリクエを探求する流れになっているらしい。
解説サイト(英語)。かなり内容が詳しくてネタバレです。
http://www.imdb.com/title/tt0102779/synopsis?ref_=ttpl_pl_syn
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【副王トラカエレル Tlacaelel 「雄々しき魂(岩波書店のアコスタの本の日本語解説に載ってました)」 生没1398(1397)年ごろー1478(1480、1487)年ごろ】
第4代イツコアトル、第5代モクテスマ1世、第6代アシャヤカトル、3代に渡って皇帝を補佐した副王(シワコアトル)。アステカの発展は、トラカエレルの活躍なしには語れないほどの名宰相(ちなみに、皇帝は外政(戦争など)担当、副王は内政担当です)。
四十路トラカエレル
1428年ごろ、第4代イツコアトルの時代、当時の強国アスカポツァルコに降伏するか、戦うか…の、天下分け目の戦いのさい、迷う戦士たちを鼓舞し、心を固めさせたのは、29歳の若きトラカエレルの名演説だったという。
戦うと決めた戦士たちは、平民にむかって、「この戦い、負けたら我々の死体を食ってもいいし、汚い壷の中に放り込んでもいい」と誓ったのだそうな。儀礼的食人の風習があったアステカでは、たとえでなくて、マジで食われるの覚悟のセリフだったのだろうか…。
1428決戦間近
演説は、要約するとこんな感じ(早稲田選書『古代のメキシコ人』などで読めます)。
トラカエレル29歳
トラカエレルは、アスカポツァルコ戦において、殺されるのを覚悟で一人でアスカポツァルコへの使者に立って宣戦布告したり、戦争でも軍を率いて大奮闘、熱い活躍を見せる。
戦争開始が1427年、翌年28年に勝利。勝利の後は、トラカエレルは、トラコチカルカトルの称号を得て、その後、副王となり、名宰相ぶりを発揮。
同盟国テスココのネサワルコヨトル王にならって法律を整備。
また、自分たちアステカ族の部族神ウィツィロポチトリ神を強く権威づけしていき、偉大なる太陽神とあがめ、独自の宗教体系を打ち立て、アステカの精神を作り上げた。熱血の武勇と冷徹なる政治力、格好いいな…。
トラカエレルの思想
以後、アステカ族は、誇り高き戦士の部族として、ガンガン戦争をして領土を拡大、目覚しい発展をとげる。
ただ、ウィツィロポチトリ信仰自体はアステカ族の外にはさほど広がらなかったようなので、こちらは、あくまで、テノチティトランのあたりのアステカ族の宗教だったもよう。
そんなこんなで、トラカエレルは大変な人望があり、「皇帝になって!!」と何度もまわりに言われたが、断り続け、副王のまま国を支えたという。
以下は、第5代モクテスマ大王崩御の後、新王選定のさいの演説(アレンジしてます)。70歳くらい。
トラカエレル70歳くらい
「副王のままでも王と変らないし、私の助言なしでは前の王たちは何もしなかった」とか、彼が傲慢だったというのはこのあたりの演説からかもしれませんが、それだけ自信があったのだろうなあ。
こういう、皇帝ではないスゴ腕の皇族が、「この人なしに国の発展はなかった」というポジションというのは、格好いいな…。中国の清王朝の摂政王ドルゴンを思い出しました(詳しく比較したら違うかもしれませんが)。

第6代アシャヤカトル、第7代ティソク、第8代アウィツォトルは兄弟です(彼らは、第4代イツコアトルの息子と、第5代モクテスマ一世の娘との間に生まれました)。
トラカエレルは、100歳まで生きたという話もあるらしいですが、そうなると、第8代アウィツォトルの御世まで生きている計算…?
皇帝兄弟
三兄弟の兄弟順は文献によって違うようです。
この兄弟、てっきり、即位順に兄弟かと思っていたのですが、小池佑二氏の1983年の論文「アステカ王国の首長継承とその同盟都市間の婚姻関係」を読み返したところ(タイトルで検索すると、ネット上で読めます)、ティソク(生年1436年ごろ)、アシャヤカトル(生年1449年ごろ)、アウィツォトル(生年1456年ごろ)という兄弟順となってました。そうなると、長兄ティソクと弟アウィツォトルって、20歳くらい年が離れている計算。ただ、創元社『図説アステカ文明』141ページと、早稲田選書の『古代のメキシコ人』146ページでは、ティソクはアシャヤカトルの弟とありました。また、チマルパインを読んだ約翰さまのお話では、ティソク、アウィツォトル、アシャヤカトルの兄弟順で、三男で兄より先に皇帝になったアシャヤカトルが兄二人に見くびられていた話になっていたそうです。
今更ですが、英語版ウィキペディアCacamacihuatlのところにアステカ家系図ありましたので、貼っておきます(文字にリンクあり)。また、別のページにも、家系図がありましたので、参考までに。

約翰さま情報によるトラカエレルの最期。
ドゥランやアコスタによると、病に臥せたトラカエレルは「息子たちを頼む」と皇帝に言い、皇帝はトラカエレルが生きているうちに彼の長男を副王にして、トラカエレルは満足して逝った、のだそうです(ドゥラン本だと皇帝はアウィツォトル。アコスタ本だとドゥランのと話の筋はほぼ同じで、王はアウィツォトルではなくアシャヤカトル。ただし、ティソク→アシャヤカトル→アウィツォトルという即位順で、とのことです)。
2014ふんどしの日3
チマルパインによれば、トラカエレルのマントは上半分が白で下方は黒だったそうです(知ったのが遅かったので、古い絵にはとりいれてないです…)。
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【アステカ第6代君主アシャヤカトル Axayacatl 「水の顔」 生年1449年ごろ、在位1469-1481年】
19歳で君主に選ばれた若き君主。数々の征服戦争を行った。
1473年には、同じアステカ族の都市である商業都市トラテロルコを併合。
トラテロルコは、アカマピチトリ王以前の初期のころにテノチティトランから分離独立した一派が建てた都市で、商業都市として栄えた。テノチティトランのすぐ北に位置し、同じ小島の中に2つの独立した都市が並んでいた状態だったが、以後、完全に支配下に置かれた。
1478,79年ごろ、タラスコ王国にかつてない大敗北をしたが(同盟軍含め3万人の戦士が、10分の1以下になったという話もあるそうです。そのうち、テノチティトランに返ってきた戦士は200人だったという記録があるんだそうだ)、気をとりなおして、他の地域と戦争をつづけた。
アシャヤカトルの歌
「彼らは我らを孤児にし 去って逝った、哀悼せよ、ああ お前たち王侯よ!」
(「メヒコの最高統治者アシャヤカトルの歌」~『アステカのうた』野中雅代著(青土社)より引用)
去って逝った王たち、モクテスマ、イツコアトル、ネサワルコヨトルらを想う。アシャヤカトルは詩作をし、詩が残っているようです。
アシャヤカトル1480
「俺たちの戦いはこれからだ!!」
トラトアニ出陣
シペ軍装
穀物の神シペ・トテックの軍装姿の第6代アシャヤカトル。Codex Cozcatzinに姿が残ってます。
なんで軍神ウィツィロポチトリでなくて穀物神シペさんの格好なんだろうと思っていたら、「人間の生皮の服を着る神の格好をしていたら敵がびびる」というコメントをいただきまして、そうか、案外、見かけが怖いからだけだったりしてなあ…。
ちなみに、皇帝陛下のお召しになっている軍服が、本当に人間の皮使用の服かどうかは謎です(下のサイトにはおそらく偽物だろうと書いてありましたが)。
軍装サイトhttp://historum.com/war-military-history/47720-historical-armies-illustrated-aztec-empire-contemporaries.html
Codex Cozcatzin(絵文書)http://gallica.bnf.fr/ark:/12148/btv1b8452823t/f30.image
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【アステカ第7代君主ティソク Tizoc 「血を流す者」生年1436年ごろ?(第6代君主アシャヤカトルの弟であるという説もあり)、在位1481-1486年】
ティソックとも表記。第6代アシャヤカトルの兄もしくは弟。即位して最初の戦争がパッとせず、その後も戦に消極的で、たった5年の治世で毒殺されたと伝わる。
ティソクさん
絵は、供儀として、耳たぶから血を捧げているの図です。
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【アステカ第8代君主アウィツォトル Ahuitzotl, Ahuizotl 「水の怪物」 生年1456年ごろ?、在位1486-1502年】
アウィソトルとも表記される。戦の天才で、アステカ帝国の最盛期を築き上げた、恐ろしき怪物皇帝。
2014ふんどしの日2
すぐれた軍事指揮者で、自ら軍を率いてガンガン征服戦争し、領土を倍にする勢いで増やし、アステカ族の君主の権威を高めた。
兄であった第7代君主ティソク(わずか5年の治世で死亡)を毒殺して帝位についたという噂があり(トラカエレル首謀説もあります)、また、即位の翌年の1487年、テノチティトランの大神殿の増築工事が完成したさいには、2万人のイケニエをささげたとも言われ、何かと血なまぐさい(ひとつひとつ心臓を取り出すので、数は誇張と思われますが、2万人の出典は、『テメリアーノ・レメンシス絵文書』や、『バチカンA絵文書』に添えられた絵文字の数字らしい。ただし、神殿の建設にかかわった人数や落成式の出席人数という説もあるそうで、本当に生贄の人数かは不明。ナワトル語テキストによる『クアウティトラン年代記』だと、生贄の数は8万人を超え、80,400人と記載される)。
ティソクの時代に反乱を起こし鎮圧された地域に、即位後、改めて攻め込み、大人を皆殺しにして子供4万人を分散移住させて、人がいなくなったところに自国民を住まわせ、対タラスコの砦を作った、という話もすごいです。逆らう者への見せしめ効果に加えて、戦略的に重要な部分を徹底的に抑える非情な計算も怖い。その後、西の強国タラスコの南方を囲むように町を支配下に入れていくという、冷徹な戦略ぶり。
突撃トラトアニ
治世のはじめに、国内の反対勢力を叩いた後は、新たな征服戦争を開始し、はるか遠く、グアテマラ国境のソコヌスコ王国まで征服。貿易商人ポチテカを評価し、彼らが敵国での諜報活動で集める情報を元に戦争したそうなので、勝てるように戦をしている感じですね…。
戦の得意な陛下ですが、即位前には軍指揮官だったので、前の兄王たち(アシャヤカトル・ティソク)の時代の負け戦やしょぼい戦も経験しているんだろうな…と推測です。
治水工事に反対した首長を暗殺したなどという、ぶっそうな話もあったようです(工事は失敗して洪水起こして都は水浸しになったんだそうだ)。
ふんどしの日2015
アウィツォトルの最期
正確には、頭をぶつけた怪我がもとで亡くなったそうで、直後に死んだわけではないそうですが、それとしても、洪水が起こったのは1500年ごろ、死亡が1502年…。死ぬまでに2、3年はかかっているようなので(その間は、戦争も含めて、皇帝の仕事もしてたらしい)、本当にこれ、死因…?それこそ、「家康の天ぷら」並みにあやしい説かも。奇妙な病気で骨と皮になって死んだ説もあるんだそうです(毒殺?)。
(メモ:約翰さまによると、洪水で頭ぶつけた怪我が元で亡くなった話の出典は、トルケマダ『インディアスの王朝』第2書67章。骨と皮は、ドゥランの本かなあ…)。
頼んだぞ御意
後継者の甥のモクテスマ2世(即位前は将軍)とのツーショットをイメージ。「頼んだぞ」「御意」
陛下のファッションセンスについてはスルーしてください…(史実じゃないです)。

【アウィツォトル崩御のさいの、テスココ王ネサワルピリの弔辞】
...........”あなたが死んでからというもの、太陽は沈み隠れてしまい、この都市は闇の中へと進んでいる。あなたの威厳威風が照らし光を投げかけていた王座には光がない。”.............
約翰さまが、ドゥランが記録した、アウィツォトル崩御のさいの、テスココ王ネサワルピリの弔辞をブログで翻訳してくださいました。→約翰さまのブログへ
屈みこみ、涙ながらに、死せる王に語りかけたのだそうで…。さすがは詩人として名高き、ネサワルピリ王。いい弔辞です…。
アウィツォトル崩御
(イラストは、調べ切れてなくて、歴史の葬送の記述に基づいてないです。座った形の遺体をくるんだのちに、仮面などをつけて飾るようなんですが。これから正式に飾りたてると思ってください…)
これを読みながら、二人の王は仲良しだったのだろうか…と思いましたが、現実的には、第6代アシャヤカトル、第7代ティソク崩御のさいのネサワルピリの弔辞も、こんな感じだったんだろうなあ…。

【アウィツォトル陛下のお墓が見つかるかも…?】
ナショナルジオグラフィックの2010年11月号に、メキシコで大神殿発掘中、アウィツォトル陛下のお墓がいつか発見されるかもという記事がありました。
「解明される王国の謎アステカ」
http://natgeo.nikkeibp.co.jp/nng/magazine/1011/feature02/index.shtml
もしかしたら、いつの日か、アウィツォトル陛下のお墓が発見される日がくるかもしれません。
もしも発見されたら、個人的に、三国志の曹操のお墓が発見された時以来の衝撃だなあ…(自分が生きている間に見つかるとは思いませんでした)。アステカは火葬なので、どれだけ詳しいことがわかるかは謎ですが、陛下の生没年や(私は小池氏の論文で見た、三兄弟の末っ子で生年1456年ごろの設定で描いてますが、チマルパインでは第6代アシャヤカトルより年上の次男坊で、ドゥランでは即位時少年だった)、詳しい功績や人となりがわかるかもしれませんね…。
正直、アステカの地図を見ると、陛下が南のテワンテペクのあたりを征服したのかどうかがわからないです。ドゥランでは都から距離があるため物資の調達に苦労しつつも征服してましたが、地図によっては範囲に入ってなかったり(実際に貢物を納めた裏付けがないのだろうか)、英語のテワンテペクのウィキでは征服できなくてアウィツォトル陛下の娘のコヨリカツィンをサポテカ王の嫁にして和平を結んだことになってました(コヨリカツィンは3人の子宝に恵まれ、次のサポテカ王も誕生したと伝わります)。征服したのか和平を結んだのか、いずれにせよサポテカとの関係は敵対関係になく、おかげで、はるかグアテマラ国境のあたりまでの遠征と征服が可能になったらしい。
アウィツォトル陛下20160214
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【テスココ王ネサワルピリ Nezahualpilli 「断食する首領」 生年1464年、在位1472(1473)ー1515年】
テスココ王ネサワルコヨトルが1472年に70歳で亡くなった後、8歳でテスココ王として即位。
父王に引き続いて、アステカ族とは固い同盟を結んで協力しあい、テスココを統治。父親同様に賢王として名高く、すぐれた詩人であったそうです。二人の名君が続けて出たお陰で、テスココは、アステカ帝国時代、文化都市として大いに繁栄しました。
ネサワルピリ立ち姿
妻妾も子供もたくさんで(子供は144人とか)、商人の娘で教養のある美しきトゥーラの女性を深く愛したといわれ、また、副王トラカエレルの長男カカマの娘、アステカ第6代君主アシャヤカトル、第7代ティソク、第8代アウィツォトルの娘をそれぞれ嫁にもらったらしい(ただし、アシャヤカトルの娘チャルチウネネツィンは、不義を働いたとして処刑されたと伝わります。また、自分の息子も2人処刑しているのだそうだ)。
参考/テスココ王家(文字にリンクあり)
テスココの夜
約43年間ほどの長い治世だったので、アステカの4人の君主(第6代アシャヤカトル、第7代ティソク、第8代アウィツォトル、第9代モクテスマ2世)とお付き合いありです。
アステカ帝国1473
アステカ帝国1500
アステカ帝国1515
1515年に亡くなりましたが、魔術師でもあったネサワルピリは、晩年、1519年のスペイン人の襲来を予言していたともいう。
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【アステカ第9代君主モクテスマ2世 Moctezuma II 生年1468年ごろ、在位1502-1520年】
モクテスマ2世こと、モクテスマ・ショコヨツィン「怒れる首長・若き者」(モンテスマ、モテクソマ、モテクソーマ、などとも表記される)。
スペイン人征服者コルテスがアステカに現れた時の皇帝。
即位したのち、前君主アウィツォトルの部下をごっそりすげかえ、貴族を尊重。宮廷作法を厳しくし、皇帝である自分を半神半人としてあがめさせた。
対等な関係だった同盟国のテスココは、1515年、賢王ネサワルピリ(かのネサワルコヨトル王の息子)が死亡し、その後、皇帝の思いのままになる傀儡の君主を立てられて、完全に皇帝の支配下におかれることに。
アステカの君主が神聖化されて絶対的な権力がにぎられると、いわゆる「アステカ帝国」のイメージに近いかもしれませんが、それがモクテスマ2世の代になって、やっとそうなったのか…。
モクテスマ2世の歩み
1519年、スペイン人征服者コルテスと数百人のスペイン兵がアステカの都テノチティトランにあらわれる。
モクテスマ2世は丁重に彼らを出迎えるが、立ち回りのうまいコルテスにクーデターを起こされ、宮殿の中に軟禁され、人質状態となってしまう。
そんな中、スペイン人同士の揉め事が起こり、コルテスは部下にまかせてテノチティトランを離れることになった。
だが、コルテスの留守をあずかった部隊長アルバラードは、祭りで踊っていたアステカの貴族たちに突然襲い掛かり、大虐殺するという暴挙にでる。
アステカの戦士たちは、戦おうとしないモクテスマ2世をついに見限り、モクテスマ2世の弟クィトラワクを新しい王に選び、スペイン兵に戦いを挑む。
モクテスマ2世はコルテスに頼まれ、怒り狂う民衆の説得を試みるも、投げられた石に当たり死亡したという。
コルテスとモクテスマ
スペイン人に滅ぼされた恨みは、現代にも…。
モクテスマの復讐
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【アステカ第10代君主クィトラワク  Cuitláhuac (名前の意味は「乾いた糞」…と、前述の小池氏の論文に書いてあった) 生年1476年頃、在位1520年(80日間))
スペイン人と戦わないモクテスマ2世を見限り、アステカ人が王にした、モクテスマ2世の弟。
クィトラワク王のもと、アステカ戦士たちによる、スペイン人への猛攻撃が始まった。
アステカ側の苛烈な攻撃に、状況を不利と見たコルテスは、夜の闇にまぎれて、堤道を通って、いったんテノチティトランから脱出しようと試みるも、アステカ人に発見されてしまう。
アステカ戦士たちは逃げるコルテスたちに襲いかかり、多くのスペイン兵が討ち死にし、黄金をたくさん持っていた者は、金の重みでおぼれ死んだという。
満身創痍で命からがら逃げたコルテスとスペイン兵らは、この大敗北ののち、反アステカの先住民トラスカラ族の元に身を寄せ、再起をはかった。
いわゆる「悲しき夜」である。
悲しき夜
こうして、テノチティトランから、スペイン人を追い払うことに成功したアステカ人。
ところがその後、スペイン人が持ち込んだ天然痘が大流行する。
免疫のない先住民らは次々と倒れ、クィトラワク王も、即位後わずか80日間の統治で天然痘によって死去してしまう……。
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【アステカ最後の君主クアウテモック Cuauhtémoc 「降りる鷲」 生年1495年ごろ 在位1520ー1521年 1525年に刑死】
クワウテモク、クアウテモク、クァウテモク、などとも表記。アステカ最後の王。
第10代クィトラワク王が天然痘に倒れ、戦と病で多くの王族たちが倒れていく中、第11代君主として即位したのは、25歳の若者、クアウテモックであった。

コルテスとスペイン兵が、大軍勢を率いて、再びテノチティトランに戻ってきた。
当初、数百人にすぎなかったスペイン兵は、トラスカラなどの反アステカの部族の協力を得て、この時、数万人にふくれあがり、テノチティトランを包囲したという。
都が徹底的に破壊されるすさまじい激戦で、クアウテモック王と戦士たちは、最後には捕虜となり降伏したものの、スペイン兵らに対し、勇猛果敢な戦いぶりを見せた。
クアウテモック王は、現在もメキシコ人から英雄として敬愛されているという。
テノチティトランの落日
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【アステカ王家の家系図】
家系図
サムネイルをクリックしてくださいませ。
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こちらは、黎明期の3人の君主(アカマピチトリ、ウィツィリウィトル、チマルポポカ)を加えた、アステカ君主第1代~11代・11名、副王・1名、集合絵。(テスココ勢は割愛です)
(上が解説付きバージョン、下が名前なしバージョンです。)
文字付集合絵
集合絵
そのチビキャラ版。
アステカ王チビキャラ集合
アステカ帝国は、1428年のアスカポツァルコ戦勝利と三国同盟をスタートとし、1521年の滅亡を終わりとすると、100年足らずの繁栄となります。
アステカの英雄、魅力的だなあ…。
メキシコ人には、アステカの英雄の大河ドラマを作って、日本に輸出してほしいです。

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